昭和39年12月7日 朝の御理解
かぎりなく美しく頂きたいといかに、せんべいに、その事を唱えましても、申しましても、美しくなるもんじゃない。
本当美しくなりたい。かぎりなく、美しくなりたいと言うても、その努力をしなくては、美しくなれるもんじゃない。
今日は、徹底私くしは焦点を置きた。
例えば、私はこうやって奉仕着を付けさして頂いておる。私くしは、もう大体いろくさな方ですから、普通の人が不断に着る様な着物を奉仕着に着ておりますからなんですけれども、古賀先生、あたりのように、いつも黒衣を着てして紋付袴を付けてあの下から真白いこの下着なんかがチラットのぞいておると、ゆうのは実にすがすがしいもんである。見た目にもすがすがしい。下からチラットのぞくと言う事ネ。下からチラットのぞいておるものが美しくなからないけん。上にはどんなにきれいなものを羽織っておりましても、下着が汚れておりましたり、チョットのぞいておるものが不潔な感じであったりするとです。それだけでイヤな感じですネ。信心は、ここん所が心の事がそれなんです。
神様が例えばかぎりなく美しゆならせて頂くとゆう事を、こよなくその喜んで下さるとこう言う事になったらです。本気で、ひとつ美しくなろうとイヤ神様が喜んで下さらなくても自分自身が気持ちがいい。
ところが、私くし共の心の中にゃこんなにも、浅ましい汚い・汚れ果てた様なものがあるのかと自分で思うてゲッソリする事がある。人間だから、このくらいの事は、仕方ないと言うたら、しかし、それはもう向上にもならなければ精進にもならない訳である。そこん所を私くしは、・・・申しましようかネ。こうそうじたい心に汚れ果てた心に取り組んで行くと言う。所に私くしは、少しずつでも美しゅうなっていく手立てがあると思うのです。 先日、とう言うても、もう先月だったでしょうか「ア-」そうとう遠い所からある教会の先生がお参りになって一晩泊まって色々、話しを頂いて帰られた。もうそうとう長い教会のなんですネ。
ところでそのたいしてその御拝礼がたたない訳なんです。人が助から訳なんですネ。お話を頂いておりますと、やっぱりもう60からのお婆さんなんですネ。18位から信心されたと言う教会修行も長くされただけんもうその御道の信心の事については、本当によくわかっておられる。
御話しを頂いておると、こうゆうすばらしい先生の所でどうして御拝礼が立たんだろうか。人が助からんだろうかと思うくらいにあるのです。言うておられる聞いておりましたら、これは、私くしどもが習んないかんほどであってから私くしの信心を語らなんないかんでは失礼にないように感じるですネ。どこに私くしは、そのおかげを頂けなさんガンがあるだろうかと私は、まあそのお話をしながらいつもその思うておった。見おった見たり聞いたりしておった。 丁度、そこで四~五人で、他の先生が見えておりましたからうちの先生方と皆んな四~五人お話しておる時に、私くしどもの二番目のまあ中学に行っております息子の学校でその電気スタンドを組み立てて作って来ているわけなんですネ。きれいに出来てるんです。 お父さん、こんなのが出来ましたと見せに来たんです「ホ-」これりっぱに出来たごたる。いくらぐらいかかたじゃろから、やはり自分でその部分品を買って来てやっておりますから500円余りで出来上がっております。そしたら、それをすかさず、その先生がお喋るんですネ。「やあ-」うちにも作ってもらいたいってこう言われる訳なんですネ。それには、 こんだんです。
そん時、私くしは思いましたネ。「ハハァ」この人の教会で御拝礼がたたんのは、これだなと私しは思ったんです。
もう本当にこれは、教師とか信者とか言うだけのことではありませんです。ゆわゆる物ほしそうにする事。それを態度に言葉に出す事それはあろうけど、仕方ないのだけれどもそれは慎みだと思とう。 そして、ァァ-私の心の中にも、今言おうとしたと思うた事がですたい、こうゆう汚い心があると言う事に又、焦点を置いてそれをとっちめていこうとする私は努力が信心さして頂く者には必要じゃないかと思うんです。
その事を私くし二~三日前ちょっと話ししたら ちょっどその場におられたんです。先生、私くしも実はあん時、それを感じましたってこう言われるんですネ。皆んなが感じておるです。
ある人が来て、ここでお話しを致しました。ある教会におかげ頂き、これは信者さんです。本当に人に導かれて、お参りさして頂いて、お話し聞いたら、なるほどよおうこなす先生がさっしゃる。
ある時、その自分の所に、みごとに柿が実ったから、柿のお供えをした、ところが月次祭たんびに言いなさる。「あ-」お金は差し上げるけんあれを三宝一台持って来て下さい。二へん、三べんなんですネ。イイエいりませんて言うてから、月次祭たんびにお供えしおったばってんあんまり言いなさるから、もうイヤけがさして、それっきり信者をそれっきり止めましたと人がここえ参って来た事がある。
私くしは、これはもう昔しから、人に物を上げる時なんか、おしいなあとネ言ってネ信心さして頂く者は、おしい・おしいを取らなければ徳は受けられんと四神様がおっしゃっておられる。
ところが、その-おしいんですネ。そうゆう時に私くしは、非常にその心戦いました。
これは、私くしども・・・時代から、これだけは自分に心がけております。ですから自分で、おしいなぁ気持ようあげられ時、これはありがたいして自分がバカんごと欲ぞな事思うて、自分で自分でたまがる様な事がある。
けれどそれと反対にですネ。おしいなぁと思う様な事がある。
そうゆう時には、一つ上げる物は必ず二つ上げる事に決めておる。私くしから物をたくさんもらう時には、「ハハァ」先生が汚い心をおこしておる時と思うても間違いでしょう。
ところがネ最近ではそれが今でもあります。ところが、自分ながら、ありがたいほどそれがきれいな神様の心に通うものである事にいつも気が付きます。家内が時々申します。なんでんかんお父さん・・・・するくせにそげん汚たなか事言うちからこのごろは、ありますけれども、汚いと言うその心、形には見ておるそれが、私くしの心の上にはもう天地と通っておる様に神様が喜んで下さる様な心にだんだん変わっていきよる自分にありがたいと思います。
これは私くしが、いわば長年そこに精神するからじゃないかと思うんですネ。私くしがいつも申します。
椛目の御信者方かぎりなく本気で美しくならして頂こうやと言うのは互いのもう言うなら相言葉の様に昔から言っております。それには、教祖の様の信心とは本心の玉を磨くものぞよと信心とは日々の改まりが大事ぞと改まると言う事、磨いていくと言う事がですネ。かぎりなく美しゅうならして頂こうと言う中に私は包含されておると思うからありがたいと思います。信心のいわば、ほんずい、神髄を行くわけなんですネ。かぎりなく美しくならさして頂こうと言うこと。
例えば、チラットのぞきましてもそれが真白い下着ある場合は、かえってそれが相手に好感をもたらせる様にですネ。私くしどもが、先生があげ汚いチラットのぞく、けどそれそのものが、汚れていないとするなら、こんなにありがたいこと。これは私くしは物品なんがの金銭だけの様な事ではありません。
自分で時々「アラ」こんな汚い事を言うたりしたりしてから、自分でビックリする様にあるけれども、よ-く、よく、それを考えてみたら、私しもおかげ頂かんならんと言う様な事ではなくて、この人が、おかげを受けんならんと言う時である。こうゆうふうに自分で驚きます。稽古です。それによって私くしが現在それがないかと言うと、ありますけれどもです。それが、だんだん例えば汚い事を言うておる様であってもそれが、神様に通う様なもの喜んで下さる様なもの。ま・たとえて例を申しますと甘木の初代は実に汚い方だったらしいですネ若い時から。それが、あれだけのその汚たなかったと言う事が、あの体徳を受けられるゆわば元になったと言う事になるとたいした事ですネ。大変な事ですネ。まだ信心のない、ご時代「エ-」御伝記に先生の御妹さんが先生を語っておられます。兄はもう若い時から、非常に汚かった物を大事にされるあまりに、よ-汚い事をいわれるわけなんですネ。貝い汁なんか食べて、貝のからをポント捨てると「コラッ」と言って怒りよなさった。お前は、その貝のゆわばあの貝の所をですよきれいになめたかと、言う訳なんですよ塩けが付いておるじゃないか、そげな事じゃ、お前肥は出来んぞと言うのが先生その時分のお気持ちじゃなかったでしょうかネ。儲け出す為には、人並み優れてやはり始末、倹約せんならんと、それは、お話を頂きますと、実にそれは汚いごと見事ですネ。
お風呂にはいられるのに、しぼったら、よくしぼったらタオルが わいと下駄を、どこかその辺まで行ったらカタカタになると、修行生の方達が風呂はいって石鹸ども使よっと、「ア-」石鹸な、石鹸ばいを言ござった。
石鹸は使うものではない、石鹸は石鹸せならんち。節約せんなならんと言うこと石鹸つけんでと言うふうに厳しかったですネ。ですから、それを信心をぬさにした時にはですネ。それは、実に汚いなんとゆうまあけちん坊だろうかと言う事になりますけれども、「それをだんだん信心で浄化されていく時です。
天地の親神様のきかんにかなう天地の親神様の御物を大事にする安武松太郎一人がいわば、儲けだす為だけではなくて神様の御物を、大事にとり扱はなければ、神様に対して相済まんと言うのでか、そうゆう事になっておられたと言うこと、それこそチラットのぞく、うちの先生があげな汚い所がある。
けれどものぞいているそのものが、見事なのである。ですから、その辺が、あの御理解を頂いておられると、それを感じられるでしょう汚いと言うても、汚いのが自分中心なのか神様を中心なのかと言う事になって来るときにですネ。その汚いと思うて思ったものが、すばらしい事になるのですから、取ってってのぞくとと言う様な訳でもないのです。
例えば、御信者さんに御供え物を強要すると強要と言う訳ではないけれど、謎かけると言う様な事、言う様な事があったり致しましても、それは、その氏子が信者が助からなければならん時にはやっぱ言わな仕様がない。
きのうこの御結果の机をお供え頂いた実に見事な「ア-」ですね。いよいよこれは、しかし御道の信心は、この御結果が中心と言われるのですから、中心の御結果がりっぱになったと言う事はネ。
これに、付随したものがだんだん、りっぱになっていく「ウ-」おかげを下さろうとしておる御教えの様な気もいたします。
これを御供えしたい失い命が助かったいわば記念にお礼を申し上げたいと言うわけ。これから上は、もう皆入れられんちゅうこっちゃネ。ネェ命だから作んなさいと作んなさいと私くは申しました。
「ネ-」一万かけ二万かけて私くしは、作りなさいと私くしは申しました。
そうゆう時に、例えば、そうゆう心がてすね。例えばチラットちらっとそのそうゆうふうに申しましたり言いたりする事がです。
この人が、いよいよ次のおかげを頂いていかなければならない、いよいよ神様によるおかげを頂く御礼であるならば、一万円より二万円の方がいいじゃないですかネ。
美しくならして頂こう、本当に汚い物がチラットのぞく、あかだらけ、汚れはてておる。それでは、いわゆるじた共に不愉快である。 ある人は、汚い人だとこうゆう。けれども同じ様な事であってもそれが自分の我情と我欲とかが、汚れがとものうていない場合は、それは、かえってすがすがしいとか、ありがたい事になっていく、自他共に助かっていく、いくとゆうことにすらなっていく。
今日は、一つ皆さんそうゆう様な意味でですね。とことんその事に焦点をおきなさいませ。かぎりなく美しくならして頂こうと言うならですネ。汚い心が、おこったらそら銘々でひとつくぼみなさるがよい。
子供に一つの物を持たせでもですネ。やっぱり、おしいと思ったら一つ持たせるより二つ持たせるぐらいな、いわば稽古が不必要ではないでしょうか。そげな汚い心をおこしゃおこす方が損んになる。 だから汚い心なんか本気に取りのぞこうとする又、努力もだんだん出て来るのではないでしょうかネ。同時に神様に通う、もの甘木の親先生の例をもって申しました。
本当に汚い先生だと、例えば人は言うかも知れません。神随を知らなかったら、けれども先生自身の心の中は、いつも天地とかよってござったと「ネ-」とにかく信心さして頂いてです。せっかく信心頂くのでございますから、御教えを頂きます。
例えば、かぎりなく美しくならして頂こうやと唱えておるだけでは、なんにもなりません。「ネ-」それを本気にです取り組みまして頂くと言う、そこから又、難しいものだとか、イヤ難しいけれども、ここを取りのぞくと、こうゆうありがたい気持にもなれるし、こうゆうおかげも受けられると言う体験を積んでまいります事が、私くしは、信心の稽古することだとこう思うんですネ。おかげを頂かれました。
昭和39年12月7日・朝の御理解終わります。